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実家の断捨離

– コスモスさん

 

私は、とっても過保護に育てられました。

 

高校や専門学校へ行ってる頃の門限は18時!
遅くなるときは事前に伝え、その時間より
遅くなると玄関の鍵が閉まっていて家に入れない。
(伸ばしても20時が限度)

 

どうして遅くなったのか、
何をしていたのか説明して母にわかって
貰えないと中に入れて貰えません。

 

なので、心置きなく学校帰りに友達と
おしゃべりしたりして過ごすことが出来ず、
友達からは呆れられていました。

 

それでも、その頃の私は母の機嫌を損ねると
家での居心地が悪いし、そうする事を
当たり前のよう思い行動していました。

 

人目を気にしていろいろ言われる事も
心配される事も嫌でした。
どんなに頑張っても母は私を認めてくれい!
とその頃の私は思っていました。

 

そんな母から離れるには、
結婚して物理的に家を出るしかない、、
って無意識で思っていたようで、
結婚して何が一番嬉しかったかと言ったら、
どこへ出かけ何時に帰ってくるかを
母に言わなくて良くなったこと。

 

主人と2人で、新婚当時21時過ぎ実家に近づいたとき、
自由になれたって心の底から喜びが溢れてきたことを
思い出します。

 

母は10年ほど前から糖尿病Ⅱ型になり
インシュリンを打っています。

 

そして、3年前からは軽度の認知症をわずらい
サービス付きの高齢者住宅に入居。
(同年代のおばさんが一人家にいるとき
突然亡くなったことがショックだったようで、
母から探してと頼まれ、自宅から5分の所に運良く入居)

 

自ら望んで入居したにも関わらず、
しばらくすると家に帰りたい!と言い出し。

 

「何で自由が効かないこんな所に私が居なくてはいけないの!」

 

「あなたは長女なのだから、ちゃんと親の事面倒見なさい」

 

「さっさと言う通りにして!」と施設に行く度に言われていました。

 

毎回なので、会いに行くのがだんだんしんどくなるほどでした。

 

施設に入るのにも大変な手続きをして
やっと入居できたのに、今度は家に帰りたい。

 

いやいや!
私はあなたの言う通りに、施設を探しました。
そして、そもそも入所するのを望んだのはあなたです。

 

それを「私の家があるのに何でこんな所に居なくてはいけないの、、。」
って言われても困ります。

 

と言うのが正直なところでした。
母に振り回され疲れ果てていました。

 

そして、ついに妹までが「お母さんが可愛そう、
お姉ちゃんお母さんを家に連れて帰ってあげて!」

 

いやいや、
私だってお母さんの望みは聞いてあげたい。
だけど、今のお母さんは一人でいたら危険だし
食事の事とかいろいろあるし、私は仕事で一緒にいられない。
気持ちだけではなんとも出来ないの!

 

ケアマネージャーさんと相談して決めなくちゃならないし、
段取りあるし、そう簡単には行かないの!何でわかってくれないの、、。
もう嫌!

 

でも、そんな中ふと、、。

 

このままにしてて、母が亡くなっても後悔しないのか!
と自分に聞いてみたら、後悔するって思いました。

 

本当は、私も母の望み通り連れて帰ってあげたい!と思ってる。

 

でも、出来ないしてあげられないと
自分を責めていることにも気づきました。

 

それなら、自分が後悔しないために
母を実家に連れて帰ってあげよう。

 

そして、もう一つ!
母の為に自分を犠牲にする事は絶対しないようにする。
母も自分も大切にする。

 

そう決めて、段取りをはじめました。

 

そのために、ケアマネさんと相談し
妹にも協力をお願いしました。

 

朝食と朝のインシュリンや薬は、出勤前に私が担当。

 

昼食、夕食とインシュリンや飲み薬は、
ヘルパーさんにお願いすることにしました。

 

まず、1週間やってみて最終的に決めることにしました。

 

他の人が家に入ることが嫌な母。
ヘルパーさんに、料理をして貰う事を承諾して
貰えないと家に帰れないことを真剣に話しました。

 

初めは、「全部自分でするから断って。
何で、他人さんに、そんな事までしてもらわないかんの。あ
んた達子どもがしてくれたらいいのに」と、
予想どうりの反応。

 

仕事あるし、私たちだけでは無理だから
ヘルパーさん達に協力家してもらうことにした事。
それを了解して貰えないと家には帰れない事を言うと、
帰りたい気持ちいっぱいの母は、仕方ないわねと承諾。

 

でも、軽度とはいえ認知症を患っている母。
きっとこの会話は何回も繰り返すだろうと覚悟して、
母が帰るための準備にかかりました。

 

そこで始めた、実家の断捨離。

 

まずは、台所。
ヘルパーさんが使うとなると、最低限、
食事に使う食器や調理に使う鍋などを
分かりやすくする必要があります。

 

いつか使う、まだ使える、
もったいないと所狭しと詰め込まれた食器棚!
流しの下には、ずっと使ってない埃まみれの鍋。
いつ作ったかわからない梅干しのびん詰。
大量の割り箸や密閉容器。

 

使うものを選び、いらないものはとりあえず床に!
すると、あっという間に足の踏み場がなくなりました。

 

気をぬくとその物達にエネルギーを吸い取られそうになる。

 

やり続けるために、
断捨離塾のやましたひでこさん、
千場さんの音声を聴きながら勢いつけて頑張りました。

 

・母が帰ってくる!
・この台所に、家族以外の人が入る!
・2週間後には母が帰ってきてお試しが始まる!

 

といった期限・条件付きだったからこそ頑張れたと思います。

 

そして、断捨離を進めるうちに気付いたというか、
思い出したことがあります。

 

何年も手付かずで使われていなかったものの中に、
母が若く元気だった頃、私たちが喜ぶだろうと
作ってくれていたアイスクリームメーカー・かき氷器・
押し寿司の型・トコロテンを突きだす器具・
大量の大きな瓶(梅干し、らっきょ、梅酒、
梅ジュース等を作り入れていた)等、、。
この大鍋で大量に作り振舞ってくれていた事。

 

私たち子供だけではなく、私の子ども達も
「おばあちゃんの作るおかず美味しいね」
って喜んでたべていました。

 

ずっと使われず、油でベットリした鍋や、
シミがついた食器。
でも、確かに何十年か何年前までは、
私たち家族を楽しませ、美味ごちそうを盛り、
しあわせな団欒の中に一緒にいた事を思い出しました。

 

私は、母に大切に育ててもらっていた。
その証拠に、ここには母が家族の健康を考え
頑張って料理をしてくれた道具達がいっぱいある。

 

心配されてる事が嫌、いろいろ言われるのが嫌、
どうしたらもう大丈夫と信頼してもらえるの!
と頑張りを認めてもらえない事を不満に思っていたのが、
私好みではなかったけれどそれもこれも全て
私の事を大切に思っていてくれたからこそ。

 

私が、母の愛を真正面から受け取ってなかった。

 

貰ってばかりだったのでは、、。って気づきました。

 

断捨離する事を通して、
あれだけ嫌だ!と思い支配された感が、
愛させていたんだ!と気づいた事は、
実家の台所がスッキリきれいになった事にもまさる
大きな成果です。

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